会長コラム

会長コラム ~同人誌『飛翔』に投稿したコラム集~

本因坊発祥の地

一月十日、弊社の向かい寺町通り歩道に、「本因坊発祥の地」として御影石製の碁盤と由来を記した駒札が設置され、お披露目された。囲碁は私の40年来の趣味である。

朝から降りだした冷たい雨も十一時頃には上がり、太陽も顔をだすお天気に、式典は飾らない石塚寺町商店街理事長の開会挨拶のあと京都市観光局長が「駒札と石の碁盤が出来たことにより寺町商店街が他の商店街から一目置かれる。また京都観光の新たな布石となる。」と囲碁の言葉を織り交ぜながらそつのない主催者挨拶。続いて来賓の塩川正十郎関西棋院理事長(元大蔵大臣)が「一昨年の8月に連絡を受け、囲碁ルーツが顕彰されることを誇りに思います。囲碁家元制度の起源といってもいい京都の地に、記念碁盤ができたのは、囲碁界にとって本当に喜ばしく造られた皆様に感謝します。」と述べた。式典にはこの日を待ちわびていた左京区北門前町寂光寺の現住職大川定信氏も出席した。碁石打ち初め式では、プロ棋士の今村俊也九段と滝口政季九段が石製の碁盤に向かって十数手を打ち、完成を祝った。

この寺町通の名は、天正十七年(1589年)頃、豊臣秀吉の都市計画により洛中の寺院が集められたことに由来する。寂光寺もその一つで、別名を久遠院ともいい、通りをはさんだ西側の町名は「久遠院前町」と弊社の所在する町名であり、その名残が見られる。 寂光寺の塔頭「本因坊」に住まいしていた僧侶の日海(1559年~1623年)は信長・秀吉時代から囲碁の名人として名高く、江戸幕府が開かれると、徳川家康の命によって寺を弟子に譲り、起居していた塔頭の名称から本因坊算砂と改名して幕府の碁所を任された。

囲碁の家元制度を確立した強豪本因坊算砂は、江戸に屋敷を拝領した後も、寺町の本因坊を本拠として、春に江戸に下り、年末に京都に戻る暮らしをしていた。以降、本因坊の名は世襲で300余年受け継がれたが、昭和十一年(1936年)、二一世の秀哉は、真の実力者が本因坊を名乗るべきとしてその名跡を日本棋院に譲り渡し、選手権制の「本因坊戦」が誕生した。家元制度が廃された現在も、「本因坊」はタイトル保持者の称号としてプロ囲碁界に受け継がれている。

宝永の大火(1708年)で罹災した寂光寺は現在、仁王門通東山西入るに移転し、算砂愛用の碁盤や算砂直筆の囲碁狂歌などの貴重な史料を蔵している。

思い起こせば本因坊発祥の碑の設置は、今は亡き内藤商店街理事長が本因坊発祥の地であることを知り、記念モニュメントを設置したいと相談があった時、会計を任されていた私は歩道整備のあとで、各商店に月会費を増額した直後で、資金繰りに困惑した。実現できるものであればしたかったのであったが、碁盤石碑と駒札の設置と除幕式経費で100万円を超える見積もりに見送った経過があった。

今回、石塚理事長の才覚で歩道整備で設置した石の3連ベンチに薄い碁盤石板を張りつけて数万円で造られ、駒札等は京都市の観光行政に大いに寄与するとのことで公費負担となった。石塚理事長の行動力と渡辺副理事長の知恵で実現した。

式典参加者のお土産に久遠院前町の飴屋「豊松堂」が白黒の「碁石飴」を300個作って配った。「好評なら今後商品にしていきたい。」とアイデアマンの田中理事である。

弊社から通りの向かいを見ると石の碁盤を眺めながら駒札を読んでいる観光客が後を断たない。寺町通りにお立寄りの節は碁石を持参すれば、発祥の地の碁盤で自由に対局ができる。

2009年1月25日

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