会長コラム

「山の暮れに」の連載記録

私の書棚には、水上勉著作の本が二〇八冊あります。

しかし、水上先生の出版本は二回の全集に収められているだけでも二二五作品あり、全集以後の作品、全集に入らなかった作品も含めると、本人も数えたことが無いとおっしゃっていました。私が、「あるとき数えてみると三六〇作品ありました。」と云うと「ほーお、そんなになるか」と想い起こされていた顔が忘れられません。

第一期水上勉全集は、中央公論社より全二六巻、一九七六年から七八年刊行で一一六作品が収録されています。生の尊さと死の悲しみを見据える永遠の文学集として好評により、第二期新編水上勉全集は全十六巻、一九九六年から九七年刊行で一〇九作品が収められました。二つの全集を積み上げると、ちょうど私の身長と同じ1m68㎝になります。

多作な物語作家のなかに於いても、生前に全集を二回も発刊した希有な存在であったといえるでしょう。

天安門事件以降、心臓と眼の病に冒された以降もパソコンを使い、入院中はテープにとって物語を紡がれました。自らの老いと死までを作品にした「仰臥と青空[老・病・死]を超えて」は二〇〇〇年一二月刊。病に臥していた最晩年の二〇〇三年五月発行「多祖彼の妖怪たち・美濃のおいずる・青墓まで」は大きな活字本でした。

想い起こせば、七〇歳を迎え気力をふりしぼり最後の新聞連載となった毎日新聞夕刊「山の暮れに」をひきうけた水上先生は、他の雑誌連載と格闘しながら毎日、原稿用紙三枚を三〇八回連載されました。 連載半ばの六月、天安門事件に遭遇し、帰国直後に心筋梗塞で倒れられましたが、新聞連載は止められないと頑張られ、病苦を克服しての完結でした。

「山の暮れに」連載を思い返してみると、私は一九八八年八月三日、ある陶芸家の紹介で初めて水上勉先生とお会いしています。翌年二月二十日、毎日新聞夕刊連載小説「山の暮れに」が始まります。

私の手帳記録によると、連載開始迄の半年間に水上先生とは二二回お会いしています。親しく交えた関係で、作品の中で私の名前が〞ヒトミ〟として出てくるのは七月四日号、その後は人見高・人見・人見建設・人見組・社長・人見の親方と、七つの呼び名で一二八回使われました。

「山の暮れに」の連載が始まってからの水上先生との親交が作品の記述にあらわれる時のことを書き連ねてみると・・・

一九八九年四月二日、人見建設アメリカ社員旅行。「五章 狐」新聞七月十日号

五月二日、一滴文庫に行き、池造りの打ち合せ。「七章 うぐいす」新聞八月二九日号

釈迦の聖地インド旅行に続いて中国訪問のため、三ヵ月分ほど書きだめをされていた。

六月三日、日中文化交流協会の団長として中国訪問。天安門事件に遭遇される。

七日、帰国直後、東京の自宅で倒れられる。集中治療室で面会謝絶となる。

二九日、東京の病院へお見舞い。持ち帰った天安門事件の壮絶な絵日記を見る。

十月二十三日、若狭でほたるの幼虫を採る。「九章 蛍」新聞十一月一日号

十二月三十一日 毎日新聞夕刊 長編小説「山の暮れに」完結。三〇八回連載。

一九九〇年一月三日、毎日新聞コラム欄に『「山の暮れに」連載を終えて』を発表される。

私は、この連載が始まってから毎日新聞を購読し、毎日切り抜きし完結したあと表紙をつけて長方形に製本したのを水上先生にお見せしました。先生はしげしげと眺めながら頁をめくり、何も云わずに墨をすり、巻頭に署名されました。そうして、大きな花押をいただきました。天歩艱難した日々を想い起こされたようでした。

二〇〇九年七月二十三日

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